人生の真理に気づいた的な気がして悔しくてブログをずっと書きたかった
なんで人は結婚して子どもを持ちたがるのか?なんでそれが往々として普遍的な幸せだと認知されているのか?という、ず〜〜〜〜っと思っていた人生の疑問。
私も結局寂しくて。人生の真理は「愛情」なんだよ。
愛したいし愛されたい。愛する人と結ばれて産んだ子どもを愛して育てたい。
愛情こそが人生の真理。だから往々として普遍的な幸せだと思われてるそれがいつまでも根強く支持されている。
でもさ、それってさ。
生まれてきた子どもは、また愛を求めて彷徨うわけじゃん。(やべ厨二ポエムみたいなん出てきた)
それが見つからない限り、自分はだれにも愛されてないなぁと思ってて、それが寂しさに繋がって、あ〜自分はこのまま孤独死するのかなぁ。嫌だなぁ。と思うわけ。
親側の人生はさぞ、良いでしょうよ。
そりゃ親の苦労もたくさんあるんだろうけど。私はそのあたりの責任とか宿命を背負う自信がなくて子を持ちたくないと思っていたけど、いやなんか、そうじゃないなと。
それもあるけど、生まれてきた子どもが、今の自分と同じように悩んで、人生の真理に向き合って模索するであろうことに、非常に虚しさを感じるわけ。
愛情を見つけない限り人生は満たされなくて
愛情を見つけた人生は、また誰かの満たされない人生を生むのか?
親側は「見つけた側」になるんだから無責任だよね。
子が親に「なんで俺なんか産んだんだ」ってセリフを放つ映画を見たんだけどさ、その子ども、彼はいわゆる、普遍的な幸せを手にしたくてもできなくて、それにずっと苦しんでた。そのシーンが本当に苦しくて。彼の気持ちがわかって(彼のような立場ではないけれど)でも、私を育ててくれた、彼を育てた親の人生を肯定したい気持ちもわかりたくて、本当に苦しかった。
そもそも愛が全くない人生なんて存在しないのかもしれないけど、今自分がモヤモヤしてしまうことの真理はそこにある。だから、マッチングアプリを始めた。(はい?)
自分も「見つけた側」になりたいけど、「見つけられない側」を新たに産み落とす義理はない。こんな人生の真理に順応して新たな犠牲を産まなくたっていいだろ。
それが人生の真理なんだったら、人間の本能だと言われているような気がして、事実、私も寂しいのだから、それが悔しくて、こんな人生の真理はゴミだ。
こんなゴミの連鎖は私が止める。そう強く意気込んでこのブログを書いている。
今日もめんどくさい私。