私は普段から「人生」について考えてしまうことに、山ほど時間を費やしているわけだけど、今日は、より一層「人生」ってなんだろうって思った1日だった。
今日はきっと、いろんな人が同じように「人生」ってなんだろうって思ってたんだろうな。なんかいろんな人から「人生」って言葉をやけにたくさん聞いた気がする。
生まれてきて、誰もが幸せになりたいはずなのに、それを拒む要因がたくさんあって。でもそれの出所が、同じように生まれてきた人間だから不思議になってしまう。
誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立ってるとか、聞きがちな言い回しだけど、そういうことがいまだに世の中で往々にして起こっているのかと思うと震え上がってしまいそう。でも、起こってるよね。私にも自覚がある。
自分の中に芽生える「悪意」とか「嫌悪」とか、他人に向くそういう負の感情は、いくら持たないようにしようとしたって無理で。もはや、なぜ人は嫌われるのに生まれてくるのかというところまで、短絡的に絡めた変な思考回路すら生まれてしまいそう。
そして私たちの恐ろしいところは、そんな悪意や嫌悪の感情を、憶測だけで増幅させていくところ。こんな情報にまみれた時代に、取捨選択を履き違えそうになる。
なんか、モノというか、情報を持ちすぎている気がして。もっと身軽に生きたいなと、ふと。私が持ってる情報なんてたかが知れているんだけど、偏りが酷いというか。興味のあるものを深掘りした、狭くて深いそれが、逆に固定概念とか、自分を縛り付けているような部分もあるような気もするし、そこに人生の重きを置きすぎていることに対しての怖さも生まれた。
だからみんな人生の話をしてるんだよね。推しの人生は何であって、推しが担っているヲタクの人生は何であったのか。私たちが生まれてきた。だから何だ?
いや、人生なんか、親が生んだから与えられただけなんだけど。
彼らの今日までの人生はなんだったのか。大勢を歓喜させている、その裏で。賞賛される、その裏で。
でも、何を考えたって彼らはまだ若くて、全てを失うには全然早すぎる。私が彼らのヲタクだったら今何を思い何を考えどう過ごしているのか皆目見当もつかないけれど、、、ヲタクたちの人生もまた、これから先続くのだから。
この人生が何であったか。を考えるのはまだ早くて。過去じゃない。まだ未来がある。
どう終わろうか考えあぐねて数日放置したこのブログ、すずめの戸締まりを観た後に続きを書いてみたら、なんだかポップに終わらせることができた。これもまた運命のような出会いのタイミングだったのかも。何を観ても何をしていても「人生」を考えてしまう私に、人生の答えをくれたような、そんな時間だった。