語彙力を鍛えたい

伝えたいのに伝わらない気持ちのもどかしさ、行き場のない感情を出来るだけ言葉にして反芻して吸収したり昇華したりするための練習

余生になるほどに好き、強烈に

 

 

「推し、燃ゆ」を読んだんです。芥川賞を受賞した今話題の本。ヲタクとして読まないと、という使命と、単純に読んでみたい好奇心で。

 

ただ、ハッピーエンドではないという前情報と、推しが炎上するというところから始まるテーマ性に、私絶対病むだろうな。という心構えはあって、あったのに平日に読んでしまいまして、非常に後悔しています。これは明日、引きずってるだろうな〜。

引きずる前に言語化してしまおうと思って、このブログを書いています。そうじゃないと、この気持ちに落とし前がつかない。頑張って言語化しないと睡眠時間も削られますからね。頑張って!私!

 

 

 

推しは「背骨」という表現が随所にあって、これがまさに。と思った。

あとは「じゃあ死ぬ」と迷いなく口にする主人公にも、悲しいかな共感できてしまった。

 

 

推しが背骨であり、生命線。抜かれたら生きていけないというか、彼女もまた、推しのいないこれからの人生は余生だと、そう言った。そう言ってこの本は終わった。

私自身、推しのことだけを考えている時間が本当に幸せで、こんなに活力のない自堕落な生活を送っている自分でも、大声できゃっきゃと笑える時間がある、だからまだ大丈夫、推しがいるからそう思える。なんとか生きられている。

 

私も彼女のようになっておかしくないと思った。それを制御しているのが「誰でも大好き」通称「DD」と言う文化。私は、背骨をとっかえひっかえして、自分の人生がいつだって余生にならないように生きてるんじゃないかな。と感じてしまった。

 

自分がDDであることに悩んだ時期もあった。一方の推しに悲しいニュースがあって、一方の推しに嬉しいニュースがあって、私はどっちの感情になればいいのかわからなくて。これは非常に不謹慎だと思った。フラフラしてるから、推しのイベントに共鳴してあげられない。ヲタクとして不謹慎だ。自分は無責任な愛情を振りかざしてるだけにすぎない、推しメンを好きな自分が好きなんじゃないかとか。色々考えた。結局答えは出なかったけど。

 

 

答えが出なかったのは、意図的に推しメンを増やしたことがわかっているから。

自分のメンタル保持のために。背骨を、片時も失いたくがないために。一瞬でも余生を過ごさないために。

 

自分がいちばん可愛いんだな。と理解してしまって、それでも、出来るだけ病まずに、精神衛生上良い環境に自分を置いておきたくて、そうじゃないともう、本当に生きられないと思って。モヤモヤを抱えたまま、DDの自分を受け入れた。好きがたくさんあったっていいじゃないかと。

 

 

ヲタクとしての好きは一方通行だから。私が好きでいること=正解だから。

日常生活に溢れる好きは相互でなければいけない。私は人から好かれる自信がないから。だから「DD」になって、好きと言う気持ちを発散させているのかもしれないと思ったこともある。と言うか、現在進行形でそう思う。

 

本の主人公にとって「推し」はたった一人で、その推しが燃えて、最終的にいなくなった。新しい推しはできないと語る彼女は、たった一つの背骨を失い、人生の残りを「余生」と言わしめた。まだ10代なのに。

 

 

 

でも、彼女の残りの人生を余生と言わしめたこと、悲しいようで、人生でそれだけ強烈な「好き」を体感した経験は、もしかしたら幸せだったのかもな。

私は仮に今の背骨を抜かれたとしても、新しい背骨を入れていけしゃあしゃあと生きていく。今までもこれからもヲタクとして生きていくけど、無責任な愛情に恐怖を覚えた私にはもう、強烈な「好き」はきっと、2度と来ない。