語彙力を鍛えたい

伝えたいのに伝わらない気持ちのもどかしさ、行き場のない感情を出来るだけ言葉にして反芻して吸収したり昇華したりするための練習

長峰柊磨くん、お元気ですか?

 

 

 

夏クールの月10ドラマ「魔法のリノベ」が終わったのに、夢にヤツが出てきた。というか、普通にヲタクが妄想の末に捻り出した、オリジナルストーリーの恋マジ最終回だった。

 

作中、お母さんは包丁持ち出し騒動の後あっけらかんとしていたけど、夢の中では相当落ち込んでいた。それは純・柊磨も同じで。いろんなことが立ち行かなくなって、柊磨は倒れてしまう。お母さんは「お前のせいだ」と純を再度罵倒するけど、柊磨が純に当てて書こうとした、書きかけの手紙を部屋の中で見つけて、考えを改める。

 

みたいな夢だった。まぁ、これを文字に起こすに当たって、多少脚色した部分はあるにしても、リアルすぎんか?

 

 

こんな夢を見たのは、「生と死」がどこか伏線として貼られているような気がしていたからだと思う。

どうせ無くなるんだから恋なんかしたくないという純に「じゃあ、どうせ死ぬから生きるのは無駄?」と聞いてきた柊磨が、実は、幼少期に餓死しかけてたり、母親が自殺未遂していたり、漠然としているはずの「死」が身近にあるような人生を歩んできてて。

 

無くなるものに対して、むしろ純よりも敏感で恐怖を感じていたのが柊磨だったんだと思う。そしてそれは、彼の自己肯定感の低さに繋がっている気がする。

 

 

柊磨って、作中では「刹那系恋愛主義者」とかいうよくわからなかった肩書きがついていて、要は「危ない男」みたいな描かれ方をしてたんだけど、私はヲタクだから、そこまで悪い男に見えなかったというか、どうも「松村北斗」が透けて見える感じがずっとしてて。もっとゴリゴリ危ない男、田中樹みたいなヤツにして欲しかった感(←どういう?)が、ずっと拭えずにいた。

 

でも、むしろ、そこが狙いだったのかも。長峰柊磨と松村北斗の共通項は「自己肯定感の低さ」で、だから、柊磨から北斗が透けて見える感じがずっとしてたのかも。

 

いや、あの、推しを「自己肯定感が低い」呼ばわりして、たいそう申し訳ないのだけれど、我々のような(我々?)自己肯定感低い系の人種は、自己肯定感が低い分、自己愛が強いんだって。自分に対しても、ほくぴに対しても、それ、めっちゃわかるー!と思ってしまった。勝手に分析してごめんけど。

 

 

柊磨は、それこそ、「どうせ死ぬから生きるのは無駄」と、幼少期に思ったことがあったんじゃないかな。でも、母親のことがあって、生きる目的を見つけたのかも。

誰かに必要とされることで、自分の生きる意味・無価値観からの脱却を図ろうとしてきた人のように見えた。だから、人当たりをよくして、寄ってくる人に愛想を振りまいて。

 

自己愛の強いタイプ、他人軸で生きているタイプ、最近「自己肯定感」って調べるだけでいろんな見解が出てきて、正直わけわからんのだけど。長峰柊磨にはそれがあったような気がして、一気にいろんなことが腑に落ちた、9月でした。(最終回から3ヶ月経ってます)

 

 

自己肯定感が低くても楽しく生きていこうな!(自分がいちばん無理)

全部なかったことにしたい

 

”クラスメイトが将来テレビで私を見てチャンネルを変えたくなるような存在”

今の私、完全にこれになってる。いや別にテレビになんか出ないんだけどさ。それで先のきしょきしょブログを書いてる。

 

 

このブログ、本当に繰り返し同じことを書いているなあと思う。自分には価値がないとか何だとか。でもそんな自分を作ってきたのは自分自身だからね。

 

小学校のクラスメイトたちは今の自分に何を思ってるんだろうか。いじめの主犯格だった子、涼しい顔して加担してた子、寝返った子、悪口だらけの交換日記、全部、どうやって昇華したんだろう。

 

なんなら、いじめの主犯格だった彼女たちは明るかったから、先生にも気に入られてて、そんな先生たちは、どうやって当時から自分たちのことを正当化してたんだろう。いや、そもそもしてなかったのかも。

 

私は永遠にあの時間を消化できないでいる気がする。いじめに加担もしたし、いじめられもしたし、よくわからない空気を読んで、でも読みきれなくて、よくわからない発言もして自己嫌悪になって、そんなグループにいる意味がやっとわからなくなったのが、高校を卒業したあたり。

 

地元だから親経由で話を聞いたりもする。結婚しただの、子供が生まれただの、仕事頑張ってるだの。そんな話を聞いたとて。

 

 

学校というコミュニティのなかで上手く生き残るために、ない知恵をいっぱい絞って、当時からやりたくないことたくさんやってきたね。あの時間、何だったんだろうね。というか、学校って場所は、一体何だったんだろうね。

 

 

高校生の時、一瞬だけ、体育の先生になろうかと思ったことがある。もともと甘々採点の学科だったけど、体育の成績だけ3で、あとの教科は5だった私が。

 

先生って弱者の気持ちがわからないとダメじゃない?って思ったんだよ。

 

いじめっ子に加担するだとか。体育のできない私を馬鹿にしたりだとか。そういうのが往々にしてある縮図なんじゃないかと思った。

 

今となっては色々と思うことがある。それは大人になったから。でも言い返す術もタイミングもない。私の持病を教材にするな!とか、色々言ってやりたい。

 

そしてそんな”色々”の重なった私が、私自身にとって「嫌な思い出」の一部になってしまっている。

子供の頃の出来事をたまに親から聞かされて、私はそれを全部覚えてないふりするけど、実際は全部覚えていて、いろんなことを蒸し返したくないから忘れたことにしてたりするしね。

 

悲しくなってきた。やっぱり自分の人生って、一体なんなんだろう。

将来の夢が歌手だった小学生に戻ったらこんな作文を書いて大人をドン引きさせたい

将来の夢

6年2組 田中かなた(仮名)(下から読んでも田中かなた)(!?)

 

大きくなったら、テレビに出て歌を歌う人になりたいです。それが難しかったら、テレビに出て歌を歌う人に曲を提供したいです。理由は、歌を歌うことと、音楽を聴くことが何よりも大好きだからです。それを仕事にできたら、とても幸せだと思います。

 

もし、私自身がテレビに出て歌えるようになったときのために、今から準備しておかなければならないことがあります。それは、クラスのみんなにとって、私の存在を、嫌だった思い出にさせないことです。

 

私や、私の両親は、ある特定の人がテレビに出ているとチャンネルを変えます。それはその人のことが「苦手」だからです。

 

人間だから、何かに「嫌だ」という気持ちを持つこともあると思います。自分の考えと合わなかったり、自分の苦手なことをしていたり、そう思ってしまうことがあっても、正直、仕方がないと思います。テレビを見ている私も、深く考えずに、「この人を見たくないな」と思ったら、チャンネルを変えてしまいます。

 

でも、テレビに出る側になったとき、そんな人がたくさんいたら人気が出ません。人気が出なかったら、仕事になりません。誰にも必要とされなかったら、テレビに出て歌うことができません。

 

この人は苦手だと、テレビに出た私に対して思われてしまうのは、そのときの私に解決してもらうしかありません。だけど、今私の周りにいる友達に「あのとき同じクラスだった子だ」と思われながら、チャンネルを変えられる可能性は、今の私が無くしておかなければならないと思います。

 

テレビに出るというのは、本当に大変だと思います。それは、テレビに出ることそのものと、テレビに出続けられるような信頼を獲得する生き方をしてこられたか、という二つの面があると思います。

 

クラスメイトが将来テレビで私を見てチャンネルを変えたくなるような存在にならないように気をつけて、夢を叶えるために、これからの学校生活を送りたいと思います。

次は私の結婚式?そんなのはない。

 

友達の結婚式に行ってきた

結婚式に行くたびに親孝行しなきゃなあと思わされる。

でも親孝行のために結婚するのもバカらしいし、私は人生を悲観しまくって生きてるし。親の人生を否定したくないけど私なんかをこの世に産み落としたことは一生根に持つよ。ごめんけど。

 

結婚式で見せられるプロフィールムービーとか美化しすぎてて、人生っていいものだなぁとか思わされちゃうじゃん。友達の家族に会う機会もこんなところしかないし、育ってきた環境に触れて、人生をまた考えてしまうわけ。

 

あとは、やめた会社の同期だから、改めて「身の丈に合わない会社に居たんだなぁ」と思ってしまって、悲しくなった。頑張ってるみんなを見てるとすごいなーと。まぁ普通そうなんだけど、もう人生に悲観しすぎてて頑張る力が出ない。私はいつでも仕事を辞めたいと思ってて、でも、みんなは結婚したり何やかんやして人生を頑張ってる。

 

 

楽しいこととか、好きなことは山ほどあるんだけど、私はそれを自分に立ち返って考えてしまうから、頑張ってない自分、何もない自分、どこにも進めない自分を目の当たりにして、また凹んで、でもどう動いていいかもわからなくて、ずっと苦しい。

 

年齢が上がれば上がるほど呪縛は解けなくなっていくだろうね。

もう今更、という気持ちがいろんなところから湧いてくる。仕事もそうだし。他も色々。

 

 

今が幸せじゃないわけじゃないのはちゃんと理解していて、十分いい暮らしをしていると思う。正社員で、給料をもらって、好きなことして、ちゃんとご飯を食べられて、ちゃんと生きられている。

人生を悲観する気持ちが強すぎて、ないものねだりをずっとしているだけ。

 

経理をしていて、今の仕事にジョブチェンジしたのは、何も生み出していない自分が嫌になったからなんだけど、結局今も、何も生み出してないわけで。モノを生み出すって結構難しい。

 

こんなに人間がいて、自分の価値を見つけ出すのって本当に難しいことだと思うの。

だから結婚とかするんだろうね。配偶者に自分の価値を、存在を認めてもらえるから。

わかっている。わかっていて、できない、自分を認めてくれる人なんかこの世には存在しないと思っている。

 

 

すごく良い式だったんだけどね。何でもかんでも自分に立ち返るから、私はいちいち凹む。マジでめんどくさい。本当に嫌な人生。

 

人生のゴミ真理

 

人生の真理に気づいた的な気がして悔しくてブログをずっと書きたかった

 

なんで人は結婚して子どもを持ちたがるのか?なんでそれが往々として普遍的な幸せだと認知されているのか?という、ず〜〜〜〜っと思っていた人生の疑問。

 

私も結局寂しくて。人生の真理は「愛情」なんだよ。

愛したいし愛されたい。愛する人と結ばれて産んだ子どもを愛して育てたい。

愛情こそが人生の真理。だから往々として普遍的な幸せだと思われてるそれがいつまでも根強く支持されている。

 

でもさ、それってさ。

生まれてきた子どもは、また愛を求めて彷徨うわけじゃん。(やべ厨二ポエムみたいなん出てきた)

それが見つからない限り、自分はだれにも愛されてないなぁと思ってて、それが寂しさに繋がって、あ〜自分はこのまま孤独死するのかなぁ。嫌だなぁ。と思うわけ。

 

親側の人生はさぞ、良いでしょうよ。

そりゃ親の苦労もたくさんあるんだろうけど。私はそのあたりの責任とか宿命を背負う自信がなくて子を持ちたくないと思っていたけど、いやなんか、そうじゃないなと。

それもあるけど、生まれてきた子どもが、今の自分と同じように悩んで、人生の真理に向き合って模索するであろうことに、非常に虚しさを感じるわけ。

 

愛情を見つけない限り人生は満たされなくて

愛情を見つけた人生は、また誰かの満たされない人生を生むのか?

親側は「見つけた側」になるんだから無責任だよね。

 

 

子が親に「なんで俺なんか産んだんだ」ってセリフを放つ映画を見たんだけどさ、その子ども、彼はいわゆる、普遍的な幸せを手にしたくてもできなくて、それにずっと苦しんでた。そのシーンが本当に苦しくて。彼の気持ちがわかって(彼のような立場ではないけれど)でも、私を育ててくれた、彼を育てた親の人生を肯定したい気持ちもわかりたくて、本当に苦しかった。

 

そもそも愛が全くない人生なんて存在しないのかもしれないけど、今自分がモヤモヤしてしまうことの真理はそこにある。だから、マッチングアプリを始めた。(はい?)

 

 

自分も「見つけた側」になりたいけど、「見つけられない側」を新たに産み落とす義理はない。こんな人生の真理に順応して新たな犠牲を産まなくたっていいだろ。

それが人生の真理なんだったら、人間の本能だと言われているような気がして、事実、私も寂しいのだから、それが悔しくて、こんな人生の真理はゴミだ。

 

こんなゴミの連鎖は私が止める。そう強く意気込んでこのブログを書いている。

今日もめんどくさい私。

理由を考えると逆説が成り立つ

 

ふとドラマを見てて思ったんだが

人の命が無くなる描写はやっぱり悲しくて

新しい命が生まれる描写はやっぱり嬉しいんだよね

 

でも、自分自身が生きていくことが本当に難しい

 

生まれてくることは喜びに

亡くなることは悲しみになるけど

ただ「生きていく」ことが苦痛だったりする

 

誰かがいろんな思いをしながら、いろんな思いを交錯させながら

生きているんだと思うとやっぱり人生ってよくわからないし

 

自分が感じるこのモヤモヤした気持ちはきっと寂しさから来ていて

自分が受け入れられないから、新しい命を持つことに違和感があって

だから人を受け入れられなくて、でも寂しいからモヤモヤしていて

 

誰かに愛されている実感さえあればきっともうちょっと幸せでいられる気がする

 

これもまた別のドラマを見て考えてたことだけど

「生まれてくる理由は、幸せになるためだと思う」とかいう陳腐なセリフに

改めて考えさせられて。

 

幸せって何?

幸せと思えないなら、生まれてくる理由がないということになってしまうよ

 

ドラマ内の描写は、もう命を捨てようと思った彼に家族ができて

自分にそんな幸せがあったなんて。と言うんだけど

 

私も自分の家庭を持てば感じられる幸せがあるのかもしれないけど

そうして生まれた子どももまた、いろんな思いを交錯させながら

生きていくのだと思うと、やっぱり、自分が家庭を持つということは

できないと思ってしまう。

 

 

わからない。いざ、そういう相手がいたら、家庭を持ちたいと思うのかな。

結局、寂しさがこんな自分を生み出しただけだから。

 

いろんな思いを交錯させて生きてる自分の感情を言語化させたくて

こんなブログを始めたけれど結局、自分語りが上手くなって

余計面倒くさい人間になっているような気もしなくはない。

 

 

あ〜めんどくさ。じぶん。

私は無価値な人生を生きている

時効かと思って開けたらやっぱりまだそれはパンドラの箱だったみたいで全然ダメでボディブローみたくじんわり効いてきて辛くて悲しくなっている。今。

 

私の人生史上最も気が滅入ってしまう映画「12人の死にたい子どもたち」が妹はお気に入りらしく。久しぶりに観たい、観てもいい?と聞かれてしまい(これが苦手という話は妹にはなんどもしている)まあ結末もセリフも知ってるし大丈夫だろうと、承諾したのがすべての始まりで。

 

 

私はやっぱりアンリのあの「無価値な生」というセリフに強く共感してしまう。

自分自身は仕事していたって何も生み出さないし、自分と出会った人たちに何か影響があったとしたら、全部が悪い影響だったんじゃないかと思っている。それ以外は、無影響で無価値。

 

自分の生に価値を見出せないで死ににきたアンリだけが救われないあの結末を、どうしても受け入れられないでいる。アンリというか、自分があのセリフに共鳴してしまったせいでそう思ってしまう。

 

自分自身には価値がないけれど、私を産んで育ててきた両親と両親の思想にはきっと価値があって、私にはわからないけれど、でもそれは否定したくないから、私はかろうじて生きている。

それもまたジレンマではある。自分も添い遂げたい人と出会ったら子どもを持ちたいと思うんだろうか。子どもを産んで育てれば、自分は無価値という思想からも脱却できるんだろうか。でもそれはやっぱり生まれてくる子に対しての身勝手だと思ってしまう。

 

例えば、道で泣いている子どもにすれ違うだけで私は思う。なんで泣くくらい悲しい思いをしながら生きていかないといけないんだろう。あの子は生まれてこなければ今こんなに悲しい思いをしなくても済んだのにな。とか。

 

 

怒り。悲しみ。悔しさ。妬み。嫉み。知らんけど人はそういう感情が自分を成長させてくれたとか綺麗事ばっかりいうけど、成長って何?それって必要?

 

生まれてきたばっかりに私たちは成長を求められる。成長なんかしたくない。生まれてこなかったらしなくてよかったのに。どうせ自分は無価値なんだから。生まれてくるべきではなかったんだから。

 

 

今日はドライブマイカーを見に行ったけど、昨日ネトフリでみた映画のそのセリフを反芻しながら見たせいで集中できなくて、でもテーマ性は似ていて、感情がぐちゃぐちゃになって映画館で泣いた。主人公は、それでも生きていかないといけないと言った。

 

生きている者は死んだ者のことを一生考えて生きないといけないし。そうでなくても辛いこととか悲しいことばかり自分を取り巻いている気がする。それでも生きていかないといけないらしい。やっぱり、最初からなくてよかった。生まれてこなくてよかった。

 

きっと命を繋ぐ気がない私は無価値だろうし。そうでなくても何も生み出さないし。

生まれてきてよかったと思う瞬間もあるけど、それを感じる時は何かに価値を感じている時で、だからこそ「自分」という存在に立ち返ると悲しくなる。

 

何かを感じて、素敵だな、最高だな。と思うと同時に、自分に対して悲観的になる。

生きるのは辛いこと。じゃあなんで、みんな生きているんだろうね。私はわからない。