ヒゲダンの「Pretender」を好きになってからずっと考えてることがある。
「好き」に伴う責任ってなんだ?と。
身近に好きな人はここ5、6年できないけれど、推しは年々増え続けている。それはもう恋と呼んでも過言ではないほどのトキメキと煌めきを与えてくれ、人生に彩を持たせているのである。
問題は、推しが「増え続けている」ことである。
過去のツイートを時々見返すと、今イチオシの子ではない名前がズラズラっと並んでいる。そもそも私はこの子のヲタクとして、このツイッター上に爆誕したのである。それが今や、別の子の名前を連呼する日々。全くもって無責任である。
我が人生レベルの推しと認識している人は、、、3人。プラスで推していきたい人たちが、、、まあ他多数いるわけです。
人生レベルの推しの中でカーストがあって、そこに降臨するNo1推しは、永遠に変わらないと思ってたんです。流石に。大好きだし。ずっと好きだし。今も好きだし。
でもね、変わっちゃったんです。無責任ですよね。
推しはヲタクにとっても優しくしてくれるけれど、別に何もしてくれないんです。だってヲタクだって推しに結局のところ何もしてあげられないから。どれだけ会いに行っても、好きだと伝えても、大勢の中の一人だし。収益は事務所のものだし。Give and Takeなんてあってないような世界で、一人に愛を注ぎ続けるのって、結構難しいように思うんです。変化がないと飽きるし、安定がほしいならアイドルのヲタクなんてそもそもやってねーよ。って話になってくる。
私は、大好きだったこの推しを、正直「推し尽くして」しまった。
写真集はトータルしたら100手前まで買ってるような気がするし、グッズもたくさん買った。ファンクラブは最高ランクに手を出してサイン入りの2ショットとかボイスメッセージとかもらった。嬉しかった。最高に嬉しかった。
推しのラジオにたくさんメール出して、毎回エンディングで選ばれるサインポス当選者に2回選んでもらったし、ラジオきっかけで認知もしてもらえた。それはそれは死ぬほど嬉しかった。推しが人生の全てだった。
だけどもう、いい歳だから、ヲタク活動を縮小しようとした。推しを追いかけて最後に北海道にコンサートを見に行った。推しは私を見てびっくりした顔をしていたように思う。人生で一番楽しいコンサートだった。思い残すことが、驚くほどなかった。
推しのことを「推し尽くして」しまった瞬間である。
このタイミングで、次の推しに出会ってしまった。出会わなければヲタク活動の縮小そのものだったのに、それも出来ずに新たな「好き」の対象を見つけてしまったのである。無責任だ。
勝手に好きになって、勝手に飽きて、勝手に好きでなくなる。
ひどい話だと思う。我ながら。
私の「好き」はいつだって無責任だ。推しが死ぬまで推してなんてあげられないし、そもそも推しがグループを卒業するときにだって駆けつけているかわからない。いつ飽きがくるかわからないし、そもそも、なんで好きなのかもわからない。基本的に見返りがない世界だし、同じような「好き」を抱えた人に囲まれていたら、自分の「好き」を見失ってしまったり、妬み・嫉みが生まれたりしてしまう。
でも好きだ。大好きだ。
いたって純な心で、叶った恋を抱きしめて
無責任に好きだとか言えたらいいな。
こんなに「好き」をいう言葉に責任を抱えているこの歌詞を眺めながら、自分の無責任さに頭を抱えている。「推し」と「恋」で差があるとしても。それにしても無責任だ。
ここまで書いておきながら、推しがそこまでの依存を望んでないことも実はわかっている。だからこそ余計に、私はヲタクとしての在り方が定まらない。