語彙力を鍛えたい

伝えたいのに伝わらない気持ちのもどかしさ、行き場のない感情を出来るだけ言葉にして反芻して吸収したり昇華したりするための練習

自己愛と傲慢の呪縛から解けるか

周りからの評価が気になるからこそ、矢印が外ではなく内に向いている。自分のことが大好きで、殻に籠っている。もはや自己愛が強すぎて、誰にどう思われようと関係ないところまで来ている。

 

そんなことを過去このブログに書き残している自分なので、外から自分に対して矢印が向くと途端に築き上げた城が崩れるというか、どうしていいか分からなくなる。

 

善良と傲慢という小説を読んでいて、私がこれまでに豪語してきた「自己愛」の話が出てきたとき、共感より先に自分の中に土足で入られた気がして、それこそ自分の持っていた自己愛がものすごい嫌悪感を示した。それが驚きだった。その領域まで来てるのかと思って。

恋愛における「傲慢さ」に対して胸が痛いというか、分かるけれど分かりたくない自分がいた。きっと傲慢さも持ち合わせている。

結婚したいわけじゃない自分は「傲慢さ」と「自己肯定感の低さ」の二軸が走っているから余計複雑だ。これも過去に書いた記憶があるけど、そういう呪縛を自分に課してきたのは自分自身だし。

 

端的に言えば、肩書きがつくのが怖い。

〇〇さんの彼女、奥さん、お母さん、みたいな肩書き。そういう目で見られること。

 

本当は人一倍周りの目が気になる。だからこそ気にしないように生きる術を得てきたのだと思うの。それこそが自己愛の正体で、外に興味がなく内にばかり向く人間になった。自分のことは好きだけど、それは外から見た好きじゃないの。他人に振り回されず自分の機嫌をとって平穏に生きてきた自分が好きなの。できたら外見のことは褒めであっても言わないで欲しいし、この顔に似合わない名前も呼ばないで欲しいの。

 

外に興味がなくて自己愛ばかり積もらせてる自分を誰かに「好き」と思われている状況ってなんだ?何が好きなんだ?

一方で、今は好きではないけど好きになるかもしれない相手と付き合う選択肢ってどうやって生まれるんだ?それは妥協?選ばなければ傲慢?

 

 

 

こういう悩みが生まれるから嫌なんだ。でも呪縛を解いて欲しいとも思ってしまう。きっと誰かに必要とされれば、もっと生きやすいのはわかっているから。

 

追伸。いい歳して恋愛相談できる友達がマジでいないな。

人生って難解だけど頑張りたい自分もちゃんといるって話

 

頭の中で考えてることが無限にあってまとまらない。とりあえず箇条書きでぶん殴り書きして一旦スッキリしたい

 

 

1.  生きる理由のようなもの

最後になるであろうすずとじの舞台挨拶に行って、新海さんが共有してくれた手紙について、自分が感じたことを言語化しておきたい。

その手紙の差出人は、地震の被害によって目の前で大事な人を亡くした方だった。被災者ではない私が軽口を叩いてこんなことを言うのも申し訳ないけれど、手紙の中に、「彼らが死んで私が生きている意味はなんだろう」と言う言葉があって、それに共感する気持ちがブワッと出て、思わず号泣してしまった。

 

芸能人の訃報、事故や事件のニュースを見て、私が生き延びてしまっている理由について、頻繁に考える。なぜ「私」ではなく「その人」の命がなくなる必要があったのか。なぜ私は今も生きているのか。ずっと考えている。自分が生きている理由を考える時間というのは何年経っても不毛であって、辞めたいのだけれど、辞められなくて。

 

もちろん答えは出ないし、心底死にたいわけでもないし、なんとかその場しのぎの理由を見つけ出して生き延びているのだけれど、それでも、スイッチが入ってしまうと、そういう思考になってしまう。ずっと。

 

すずめの戸締まりは、そういう気持ちを浄化してくれるような作品だった。何を見ても自分に立ち返ってしまって悲しくなってしまう、そんな自分が前向きに思える貴重な作品。

死ぬのが怖くないのか?と聞くようなことをしている草太は、それは「自分も死ぬかもしれない」ことを示唆していて、自分に無関心というか、それこそ、「自分の扱いが雑」という表現もあった。そんな彼が、涙を流して現世に帰ってくるあのシーンで、いつも泣いてしまう。そして彼は言う。「命はかりそめだと知っています。死は常に隣にあるとわかっています。それでも私たちは永らえたい。」何もない自分でも、あの瞬間、生きたいと素直に思えた。生きていて良いのだと。

 

 

今日で13回の鑑賞だったけど、やっぱり終始泣いてしまって、(これまでのいろんな解説を踏まえたりすると、むしろ公開したての頃より泣く場面が増えている気がする)今もなお、これを書きながら泣いている。泣くことと悲しくなることは違う。私はこの映画で「前向き」な自分に初めて出会った。自分に立ち返って悲観的になる私が。それこそが紛れも無い事実だ。「すずめの戸締まり」は、どう考えたって自分の人生のパンチラインだなと思う。これからもコレが、心の支えになる。本当にありがとう。

 

 

2. 地に足をつけて働く

だが情の後、このブログを書き始めた。放送開始の初めの頃、何もない彼らががむしゃらにもがく姿が、私にはしんどくて見れないかも。と思っていた。今となっては、放送終了後に毎回号泣している。曲のせいもある。そして自分に立ち返る。

 

ドラマの内容に浸りながらエンドロール見てると、いつも「こっから」のサビ前の歌詞だけがスッと頭に入ってくる。「これだけじゃやれねぇってわかってる でもこれしかねぇからこれにかかってる」ここでいつも泣いている。

彼ら(山ちゃんと若林さん、すとんず)のかっこよさ、それに相反する、自分の不甲斐なさに泣いている。やっぱり自分には何もない。

仕事を辞めようとしている自分、職務経歴書を書いていて、今の会社で何もしてないなと実感した。転職活動で面接をしながら、「あーこの会社で仕事したくないなぁ」と思った。転職しても長く続かないような予感がした。そんなダメな自分を正当化しようとしてる自分にも腹が立つし。

 

「これしかねぇからこれにかかってる」と思えるものがないのではなく、思いたくないだけなのかもしれない。この仕事の、こういうところが嫌いだから、もうやりたくないと。でも仕事なんて一度選択したらなかなか違う分野には踏み切れないし、そういう、当たり前のことが、私はわかってなかった。それをこんな歳でようやく実感して、辛くなっている。もう、仕事を変えるとしても、さすがに次が最後だと思っている。

 

何かで読んだほくとさんの記事、「辛いことはあるけど、ここで辞めたらこの先どうなるんだろう?って思う。だからまだ辞められない」みたいなことが書いてあって、やっぱり、私には覚悟が足りないと思った。もう、嫌なことがあったらすぐ辞めてる。この先どうなる?とか、後先考えずに、自分の都合が悪くなったら辞めてる。

 

仕事って結局、人付き合いなのかも。と思い始めていて。人と仕事をする。信頼を得る。また仕事をもらう。そんなことの繰り返しなのかも。だから私は仕事がしたくない、というか、同じところに居続けられないのかも。ずっと同じ人に「好かれ続けなければいけない」状況が、しんどい。好かれなくていいやというマインドでのらりくらり生きてきた、それは、自分を正常に保つための防衛だと思っていたけど、人に気を遣えない大人になっているような気がする。

 

実家に戻って、家業の手伝いをしようかとも考えた。でもそれは土地に根付くものだから、より人との関係が濃いものになって、私にはできないかもしれないと勝手に想像する。そんなことをあれこれ考えて、「続ける」「辞める」「地元に帰る」のどれからも、ただただ逃げている。

 

今の仕事、もう少し、自分にもできることがあるのではないか?労働環境の改善、業務改善、この先にあるであろうシステム導入、もう少し続けてみれば、やりたいことがやれるのでは?それを全部投げうって、本当に辞めてしまって、それでいいの?

 

会社に対する愛情はないと思っている。でも「これしかねぇからこれにかかってる」というマインドで仕事してみたい。私だって。まだやれることがあるんじゃないか?

転職しようかと思ったけど、書いていて、転職するの辞めようかな。って気持ちになってきた。給料も上がるんだろうけどね。1年ぽっきりで、ここで辞めるのが悔しいかも。と思えてきた。多分、このドラマと、この曲がなかったら、こんなこと思ってない気がする。きっとこのまま辞めてる。辞めようと思ったこと辞めたの後悔するかもしれないけど、それでもいいや。

「間違ってる未来でも俺には光ってる」だね。この曲本当にいいな。なんか、ずっと泣いてるんだけど。

 

 

 

ちょっとだけすっきりした。やっぱり私にはこのブログが必要だな。

自己防衛も自己否定も必要、だけど

 

ここ数年の私は、メンタルが弱い、自己肯定感が低い、自分のことが嫌いで仕方ない、そういう意識のもとで生きているけれど、心因性の病気にはならない自信がある。そういう自信があるだけで、未来がどうなるかわからないけれど。

 

こういうマインドでいることそのものが自己防衛なのだと思う。自分に期待しないこと。自分を過大評価しないこと。それは、違うと気付いた時の反動が怖いから。そうやってメンタルをコントロールしている。自分の自己肯定感が低いこと、自分のことが嫌いな自分を、好きでいる。矛盾しているけど、きっとそうなんだと思う。

 

 

 

「夜明けのすべて」を読んだ。今まで読んだ中で忘れられない小説が一冊だけあるのだけれど、夜明けのすべても、これに並ぶのだろうなと、読みながらも考えていた。

 

もともと、自分のことが好きでいて、どこにいっても上手く立ち回っていた彼は、これまでの生活のあり方を失って、その振り幅というか、反動を考えると、途端に怖くなって涙が出てしまった。だから、冒頭の私が存在するのだなとも思った。

 

でも、彼が明るくなっていく様子を見ていて、それは、私にとっても希望になったというか、救われるような気持ちになれた。

 

目的を達成するために必要なこと、それが、もしかしたらできるかも、と、うすらぼんやり思っていた。でもやっぱりできなかった。彼はしばし悲観する。でも、じゃあどうすれば目的を達成できるかを考える。彼は、自分にできることと、できないことの切り分けが上手だった。病気のせいにして、悲観して、そこでこの場面が終わってしまうかと思っていたけれど、そんなことはなかった。

 

そもそも、彼がパニック障害だからできないことがあるのではなく、そんな心因性の病気を持っていない私にだってできないことは山ほどある。なんなら私にだって持病はあるし、そのせいでできないことだってある(いや、ほぼないけど)

ただ、そこにばかり目を向けていたって仕方ないのだなと。

できないことに目を向けて悲観して、めそめそして、それで終わっていたのが自分だった。できないこと、嫌いなところ、それはそれとして切り離して、できることを考えてもいいし、でも、逆に、もしかしたらそれが長所に変わることも、あるのかもしれないと思えた。

 

本に出会うちょうど1日前、同僚と寿司を食べた。社会人になってから、歳を重ねるごとの成長とか達成度がまるでないから、誕生日が嫌いだという話をしたら、「きっと真面目なんだよ」と言われた。それが目から鱗だったし、ちょっと、なんていうか嬉しかった。

 

嘘がつけなくて馬鹿正直なところ。すぐに涙が出たり、怒ったりしてしまって、感情の起伏が激しい。そういうのが短所のように感じていたけど、言い方を変えれば、真面目でピュアなんだ。恥ずかしげもなく、自分で言うけど。そういう風にも思えたらいいよね。

 

 

 

 

昔読んだ本も、今日読み終えた「夜明けのすべて」も、当人は気づかないことを、身近な人間にさらっと言い当てられて、それが腑に落ちるような、そんなシーンがあった。そのシーンで、両者ともボロボロと泣いてしまったのだけれど、よくよく考えれば、私はそれを、金曜日のスシローでちょうど体験したみたいだ。

 

 

 

そんなこともあって、なんだかブログを更新したくなった。生理前だから、よく涙が出た。スッキリして、よかった。

映画が公開されたら、いったい何回観にいくのだろうか。私は本当に、北斗さんに人生を救われすぎている。

一日でも生き永らえたい

 

私は普段から「人生」について考えてしまうことに、山ほど時間を費やしているわけだけど、今日は、より一層「人生」ってなんだろうって思った1日だった。

今日はきっと、いろんな人が同じように「人生」ってなんだろうって思ってたんだろうな。なんかいろんな人から「人生」って言葉をやけにたくさん聞いた気がする。

 

生まれてきて、誰もが幸せになりたいはずなのに、それを拒む要因がたくさんあって。でもそれの出所が、同じように生まれてきた人間だから不思議になってしまう。

 

誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立ってるとか、聞きがちな言い回しだけど、そういうことがいまだに世の中で往々にして起こっているのかと思うと震え上がってしまいそう。でも、起こってるよね。私にも自覚がある。

 

自分の中に芽生える「悪意」とか「嫌悪」とか、他人に向くそういう負の感情は、いくら持たないようにしようとしたって無理で。もはや、なぜ人は嫌われるのに生まれてくるのかというところまで、短絡的に絡めた変な思考回路すら生まれてしまいそう。

 

 

そして私たちの恐ろしいところは、そんな悪意や嫌悪の感情を、憶測だけで増幅させていくところ。こんな情報にまみれた時代に、取捨選択を履き違えそうになる。

 

なんか、モノというか、情報を持ちすぎている気がして。もっと身軽に生きたいなと、ふと。私が持ってる情報なんてたかが知れているんだけど、偏りが酷いというか。興味のあるものを深掘りした、狭くて深いそれが、逆に固定概念とか、自分を縛り付けているような部分もあるような気もするし、そこに人生の重きを置きすぎていることに対しての怖さも生まれた。

 

だからみんな人生の話をしてるんだよね。推しの人生は何であって、推しが担っているヲタクの人生は何であったのか。私たちが生まれてきた。だから何だ?

いや、人生なんか、親が生んだから与えられただけなんだけど。

 

 

 

彼らの今日までの人生はなんだったのか。大勢を歓喜させている、その裏で。賞賛される、その裏で。

 

 

でも、何を考えたって彼らはまだ若くて、全てを失うには全然早すぎる。私が彼らのヲタクだったら今何を思い何を考えどう過ごしているのか皆目見当もつかないけれど、、、ヲタクたちの人生もまた、これから先続くのだから。

この人生が何であったか。を考えるのはまだ早くて。過去じゃない。まだ未来がある。

 

 

どう終わろうか考えあぐねて数日放置したこのブログ、すずめの戸締まりを観た後に続きを書いてみたら、なんだかポップに終わらせることができた。これもまた運命のような出会いのタイミングだったのかも。何を観ても何をしていても「人生」を考えてしまう私に、人生の答えをくれたような、そんな時間だった。

 

最近思ったことを書き殴ったら全部推しの話だった

最近腑に落ちたこととか思ったことの脈略のないまとめブログです

 

 

1. 自己肯定感の話

なんかの雑誌で、ほくとが自己肯定感の話してて。アイドルの自己肯定感なんて高くてなんぼ!みたいなとこあると思うんだけど、彼はいかんせん、見ててもなんとな〜くわかるほどに、自己肯定感が低くて。

「自己肯定感が低い」のと「アイドル」って、なんか、相反する言葉のようじゃない。人から見られるのに、自分に自信がないなんて。私は推しが何人もいるタイプのヲタクだけど、特に、井上瑞稀さんなんか、すごく自己肯定感高く仕事をしてるなぁと思うし、そういうところが好きだなぁ。とも思うわけ。そういう風に見せてるだけかもしれないし、実際のところはわからないけどね。

 

ただ、ほくりんちょすは、自己肯定感が高くなりたい?と聞かれて、低いからこそ感じ取れることもあると思うから、別に高くなりたくはない。と答えてて、それ見て、なんかマジで涙出そうになっちゃって。

 

このブログ遡ると、自己肯定感が低いことも含めて自分のことが好きだなぁと思う。って、私、書いてる。これを書いてる時は、ぼんやり思ったことを書いただけで、核心には気づいていなかったけど、ほくとのインタビュー見てはっきり気づいた。自己肯定感が低いからこそ、成り立っている自分というものは、やっぱり存在するんだ。

 

世の中は「自己肯定感をあげよう!」みたいな刷り込みで溢れていて、自分だって自己肯定感の低さでしんどい思いをしているような気がしていたから、そんな刷り込みを真に受けて、色々みて、やってみたりもしたんだけど、やっぱり上がらなくて。

いや、上がらなくてというか、一時的に上がるんだけど、自己肯定感の上がっている自分を客観視してしまって、これは違うだろ、調子に乗ってるだろ。と思って、結局、前よりも自己肯定感が下がっているような、そんな感覚があった。

 

そんなことを繰り返しているうちに、だんだん、自分のことを言語化できるようになって、自己肯定感の低さが、ある種「自分らしさ」ってことに、今、やっと辿り着いた。感じがする。推しのおかげで。

 

 

もっと掘り下げていくと、自己肯定感の所在は「自信のなさ」とはまたちょっと違うような気もしていて、それは人それぞれなのかもしれないけど。私の自己肯定感の低さは「人間関係」的なところに帰着すると思ってる。

 

ここから次の話に入るんだけど。笑

 

2. 男性アイドルの推し方の話

私はジャニヲタだし、よりにもよって松村北斗が好きだし、そういう話をすると「イケメンが好きなんだね」と言われてしまうことは確かにあって。

ジャニヲタになったのはなんか、そういうことじゃなくて。でもなんか、うまく言葉にできなくて、その場は、そうかもね〜、とか言って流してしまってたわけ。

 

ただ、自分の自己肯定感の低さが「人間関係」あるいは「男女の関係」的なところに帰着すると思えば、その、言語化できないところに通ずるものがある気がする。

自分がヲタクをしている中で敢えて選ばない行動があって。例えば、自分の見た目を推しの好みに寄せる。推しを「くん」付で呼ぶ。推しの体調不良とか稼働の多さを心配する。とか。

 

かっこいいなと思う瞬間はそりゃ、彼らはジャニーズなんだから大量にあるし、素直にそう思うんだけど、それは「エンタメ」であって、なんていうか、私は彼らを意識的に「人間」として見ないようにしている気がする。いや、もちろん守られるべき人権とか尊厳は絶対にあるんだけど、そういう意味じゃなくて、私と同等じゃないものだと考えている節が、あるような気がするわけ。

 

彼らを「人間」として見ない一方で、自分はというと、これはアイドルに限らずだけど、やっぱり男性を「男性」として見るのは苦手だなぁと思う。それは自分が「女性」にならないといけないから。客観視して、気持ち悪い、これじゃない。と思ってしまう。そしてまた、自己肯定感を下げる。

 

恋愛的な要素は、自分の自己肯定感をより下げるだけなんだと思う。恋愛というか、人が絡むと、客観視しちゃって、凹む。そうでなくても自分に立ち返って考える癖がついてる。

 

男性アイドルの推し方は必ずしも「かっこいい」に帰着するものでないと、私は思っているので。ただ好きな音楽がそこにあっただけ。結構薄情なんだよね、多分、これあんまり好きじゃないな、って曲のリリースが続いたら、離れてると思う。ストだって一瞬、離れかけたし。だから感謝してる。好きでい続けさせてくれてありがとうって、本当に思ってる。

 

 

3. アイドルの個性

ストーンズのこと、本当に好きなんだよね、私。音楽が好きだから好きでい続けられてるのは確かだけど、なんかもう、ここまでくると、存在が好き。何が好きなのか色々考えたんだけど、彼らは「個性の安売り」をしないんだよ。

 

アイドルグループってすぐ「僕たち・私たちはみんな個性があります!」っていうじゃん。あれ大っ嫌いなんだよね。そりゃ個性がないアイドルなんか売り出せねーだろ!と思うし、じゃあいざ個性(特技?)披露とかなったら、意外とクソつまらん事しかやんねーじゃん。愛嬌って何?俺でもできるぞ?

 

でもさ、ストーンズから「俺たちはみんな個性があって」って、聞いた事ない!でも、どこのアイドルよりはるかに面白い。みんななんか変だし。普通に活動してたら「個性」って言いたくなるような集まりだと思う。でも言わないんだよ。

 

田中なんか「何系とかはなくて、俺らは普通のアイドルですよ」とか言っちゃうわけ。しかも、「アイドルですよ、アーティストではないです」とかも、言ってくれちゃうわけ。もうなんか、感動が止まらないよね。

 

アーティスト被れしたアイドルもいるじゃん。わかるよ。私も長いアイドルヲタクの歴史の中で、推しに対してそう思ってる時期はあった。この人たちはアイドルじゃなくてもはやアーティストだ!って。でも、アイドルだから、ジャンルレスにいろんなことができるってことに、ほんと、結構最近になって気づいた。彼らはそこを早くから弁えてるのが凄いし、自分も腑に落ちたし、あ〜だから好きなんだって、再認識させられた。

 

あるべきところにいて、必要なことを与えてくれる。安心感。「個性」とか「アーティスト」なんて言葉に頼らず、自分たちに勢いがあるふりをしない。地に足がついてる感じ。そういうのが、本当に、好きです。

 

 

 

4. 推しの個人仕事をどう受け取るか

ただ、こんなにストーンズのことが好きだと、推しが好きなのか。作品が好きなのか。よく分からなくなることがある。

曲のリリースとかライブみたいな、グループ仕事はわかりやすい。彼らはそれが本業でもあるし、自分の好きなように受け取ればいいって思う。

 

もうすぐ「すずめの戸締まり」が公開するじゃない。あれ、本当に楽しみにしてるんだけど、一体何を、こんなにドキドキしながら待っているのか、自分の中で分からなくなっちゃって。

 

人生で一番感動して泣いた映画が「君の名は。」なんだけど、声優が神木くんとか知らずに、ほんとに、事前情報を何も持たないで観たの。あの時の衝撃のデカさが、なんかもう、一生忘れられなくて。エンドロールが終わっても涙が止まらなくて、人と観に行った映画って、気張っててあんまり泣かなかったりするんだけど、もうなんか、人目も憚らずに超号泣してて、一緒に観た友達に笑われながら帰った。

 

あの感動をまたしたい、のに、私は事前情報を持ち過ぎてしまっている。それはほくとが声優をするからだよね。そもそも、ほくとが声優という時点で、私の感動ポイントがすり替わってしまったらどうしよう。とか。いらぬ心配を、ずっとしている。

 

大好きな新海監督作品に、大好きな推しが出る。切り離して考えたいのに、いろんな情報源にほくとのヲタクが纏わり付いてきて、私もその一部かと思うと震えるほど嫌になる。自分は違うって思いたくても、ほくとのヲタクであることに変わりはないから、端から見たら私も纏わり付いてる一部だよね。わかっているけど、それも悔しくて。

 

好きなものと好きなものが混ざると、こんなに複雑なんだと痛感してる。

 

今、木10で「silent」やってるじゃない。ジャニーズを起用するけど主題歌は担当しないのと、役の雰囲気がすごく目黒くんにあってて、でも目黒要素は(今のところ)なくて、単純にいいなって思う。私は彼は推しじゃないからこの作品はフラットに見れてるけど、それこそ職場の子が「めめかっこいい〜!」とか言ってたから、あれ?ストーリーの真意って伝わってるのかな?って感じちゃった。どっち派?とか聞かれて、いや、まだそういう段階じゃなくない?と思った。私はただ湊斗の優しさに感銘受けて吐くほど泣いているというのに。「吐くほど泣いてるんだけど」って彼女たちに言ったら笑われたしね。

 

昔やってた「レッドアイズ」は、ほくとが出るから見始めたけど、話は普通に面白かった。のに、最終回、小牧くんが持ってるデータのパスワードを伝えるシーンで「0618」って言われて、レッドアイズの世界観に入ってたのが一気に冷めちゃったのとか、超覚えてる。本当になんか、もったいない。そういうのを散りばめていい場面と、そうじゃない場面がある。あの時めっちゃキレてた。内心。笑

 

好きな作品だからこそフラットに見たいし、没入したい。そこに推しがいるとかを感じずに見れたらいいのに。それができるように、心の準備をしている。今。これはほくとじゃないよ〜、と、自分に刷り込みをかけている。

だって!初見って、人生で1回しかないのに!ほくとを感じる瞬間があったら、もったいなすぎるよ。推しの要素は、後から反芻するくらいで丁度いい。でも、椅子があの声で喋ってるの、まじ可愛いんだよな〜。。。はぁ。。。辛い。。。

 

 

 

 

 

ここまで、3890文字、、、日々いろんなこと考えて生きすぎじゃないか?俺。しかもほぼ推しに対してだよね。どれだけ推しを中心に世界が回ってるかを実感する。推しのおかげで気づくこともあれば、推しのせいで悩むこともあるんだよね。

あー、人生って、むず。(結局これなんだよな。。。)

ダメ男を見て、ダメな自分を知る

もっと超越した所へ。見てきて、今俺は、どうしても感想文が書きたい!!!

 

全員クズ男と称されてたし、恋愛映画との相性はモノによっては結構悪かったりして、イライラして、後味の悪い感じになったら嫌だなぁとは薄々思っていたんだけど、これは面白かった!

 

ひとくちに「クズ男」というけど、クズっていうのは人間らしさとも言えるし、いや、これはわかるなあ、自分もやっちゃうなぁと立ち返る部分もあって、千葉ちゃんが舞台挨拶で「鏡みたいな作品です」って言ってたのが、まさに!腑に落ちすぎて、ライビュ会場で一人大頷きした。

 

それこそ、自分にとって「鏡」だと感じたのはトミーで。相手から、自分に対しての好意を感じるけど、それに応えもせず、ただ優しさに漬け込んで甘えてしまったことが過去何度かあったなぁ、と、大反省会でした。

人から好きになってもらえることがないと思ってるから、滅多に起きないことの優越感に浸ってたのかも。誰かの好意を受け取るのもまた、難しい。優しさってなんだろうって思っちゃった。

 

でもトミーの状況っていちばん難しいなとも思った。それこそLGBTに当てはまる彼だったら、好きだけど好きだと言えない状況が、過去あったかもしれないし。でも彼がLGBTなのであれば、そういうところに発想が飛びそうなもんだし、あまりにも無神経ではあったか。いや、でも、それは鈴ちゃんも同じだし。むず。このカップルがいちばん、解決が難解な気がした。

 

でも、そんなトミー然り、泰ちゃん、慎太郎が持ってたのは、人間らしくて、ある意味かわいげのある「ダメポイント」だと思ったけど、玲人くんだけは、理解不能だった。逆に、どうしたら玲人くんみたいな男を好きになれるのか、真知子ちゃんに問いたい。笑

 

私は、自己肯定感が低いことも含めて、そんな自分のことが好きなんだなと最近思い始めているのだけれど、そんな自分のことを誰かが好きになってくれるわけがないとも思ってるので、恋愛って本当によくわからない。好きって、一体何?状態。

だから、急に転がり込んできた男に真知子ちゃんみたく本気で怒れるかって言わたら、無理かも。そこまでの感情が湧かない。ただセックスするだけの相手になってる。というか、自分だったら、自己愛に溢れてるから相手が自分の生活に口出してくる時点で、もう追い出している。

 

あの二人の関係性がいちばんよくわからなかったな。お互いに、好きの所在がどこにあるんだろう。何かを飲み込めば、お米持ってくれるから一緒にいようかな。って。恋愛ってそんな次元の行為なの?それって「好き」なの?結局寂しいだけなのかな。

 

 

玲人くんは理解できなかったから「ムカつく!」とかはなくて、登場人物でいちばんムカついたのは泰ちゃん。あそこまでぶっ飛んで自分本位なのにどうやって美和と付き合えたんだろう。もはや付き合うまでの経緯が知りたい。笑

冒頭は、彼女が健気で、彼氏もバカで、可愛いカップルだなぁと思ったし、公開前のインスピレーションでは、このカップルがいちばん好きかも?とか思ってたのに、大裏切られでしたとさ。(この映画においてのこのコメントは、超褒めてる)

 

自分本位で言い訳ばっかり。自分を中心に世界まわっとんか?本当にムカつく!でも思い返せば、「今一緒にいたら言っちゃいけないことも言っちゃいそう」ってセリフ、すっごく共感してしまった。優しいじゃんって思っちゃった。でもここから更に喧嘩が発展していくんだよね。

やたらムカつくのって、もしかしたら、自分を見ているようで、なのかもしれない。冷静になりたいから、一度、離れる。私がよくやるやつ。でも美和はあの場面で一緒にいて欲しかったんだもんね。不安だから離れたくなかった。相手を思っての行動に見せかけて、それが余計に、泰ちゃんを「自分本位」に見せている。

 

そりゃ誰だって自分がいちばん可愛いと思う。でもそう思わせないように、それを悟られないように擬態してみんな生きてるんじゃないかなって思うのよ。「今一緒にいたら言っちゃいけないことも言っちゃいそう」ってセリフは、きっと共感する人が多いと思う。相手を思いやってるように聞こえるから。でもこれって「自分が」冷静になりたいだけの自分本位なんだっていう、ある意味気づきになったかも。擬態しているようで、擬態じゃなかったんだ。

泰ちゃんだってきっとそうなんだろうね。自分本位発言の後に必ず言い訳が付いてくるのは、擬態をしようと頑張ってたんだ。あーそう思うと、可愛げがあるなぁとも、思えてしまう不思議。あんなにムカついてたのにね。

 

 

ストーリー性・結末・映画を見て何を思ったかってところにしっかりフォーカスするとモヤモヤは残るのかもしれないけど(これは書いていて思った)、喧嘩した時間を巻き戻してハッピーエンドにさせるというパワープレイのエンディングが最高に面白くて、それだけで結構好きになった笑

 

小説買ったので、読み込んでもちょっと腑に落としたいな。

協調性のないヒツジがギャルの群れに突っ込んで死んだ

陽キャと喋ったら病みました!!!!!!(ドデカ主題)

 

 

いや、あれは、陽キャ?ただ若いだけ?なんかわからんけど盛大に病んだ。

私の周りには明るくて社交的な人、いわゆる陽キャの部類になりそうな人、たくさんいたけど、ああいうギャルマインドみたいな子はいなかったかも。あ?いや、いたかも、一人。

 

 

わからん、ギャルマインドというか、女であることを武器にして生きてるようなタイプ?女の子は大切にされるべきだ。追われてる方が幸せだ。というマインド。

 

 

陽キャギャルマインドたちは、みんな人並みに結婚願望があって、職場の人をいろんな角度で評価して、パパ活してたことをあっけらかんと話し、パンツしか履かない私にスカートを履かせようとしてきて、会話の中の一挙手一投足に揚げ足をとって楽しんでて、なんか、非常に疲れました。。。ヒェ。。。

 

 

昔の職場でも、そういうマインドの子が一人いて、結婚は女の子の人生を背負うんだからそれくらいやらないとダメだよ!(「それ」がなんの話だったかは忘れた、病んだのでw)とかなんとか力説してて、なんかすげー悲しくなってトイレ行って号泣したな。

 

人生背負うのはお互い様やんけ!お前も相手の男の人生背負う覚悟あるんか!?!?何様なんじゃ!?はぁ!?!?とバチ切れてる一方で、じゃあ価値のない自分の人生は一体誰が背負ってくれるわけで?誰にこの負債を背負わせるわけで?とネガティブモードに突入してしまい、そそくさと帰った。

 

これはちょっとエピソードとして過剰だったけど、価値観が合わない、出来ない立ち居振る舞いを、もはや他人が持つこと・やることすら、自分の中で無理なのかも。ダイバーシティーどこ?

 

 

 

 

自分は性別を盾にはできない。わかってるからしない。

自分が自分に対して感じているのは「自己愛」であって、それは、他人に向くもの・他人から受け取るものではないということも、なんとなくわかってきた。

 

そういうマインドを時間をかけてゆっくり熟成させていったおかげで、すごくすごく強い自己愛を持った、ウルトラスーパーマイペース人間が爆誕した。

私の動物占いの診断がさ「協調性のないヒツジ」なんだよね。協調性ないのめっちゃ理解できてめっちゃウケる。

 

新しい職場で「ストレス耐性高そうですよね」って言われて、こんな過激に病んでるのに嘘じゃんって思ったけど、いや、確かにそうかも。となった。

周りからの評価が気になるからこそ、矢印が外ではなく内に向いている。自分のことが大好きで、殻に籠っている。もはや自己愛が強すぎて、誰にどう思われようと関係ないところまで来ている。もはや他者との接触を断っている「それ」が、「ストレス耐性が高い」に見えているなら、それはそうかも。と思った。

まぁ結局は他者との接触なんて完全に断つことなんかできなくて、聞かなきゃいけないことは山ほどあって、人に話しかけることが一番のストレスなので、実情はストレス耐性低いと思う。残念でした

 

 

このブログの行き着く先はよくわからないけど、私が自己愛に溢れていることだけはわかった。人生の行き着く先は、永遠の孤独かもしれないけど、あのギャルマインドには、染まりたくない、どれだけ頑固だと思われようが、自己愛に溺れていようが、この感覚だけは、無くしたくない。